SSブログ

暗黒の二年間 46 [音楽]


年が明けて2010年になっても、タツオ君はついに僕の声を聞くことが出来なかった。
これでタツオ君の中でもウォークインの失敗は確実なものとなった。この数カ月の緊張と期待と不安の入り混じった時間は、いったい何だったのだろう。六年余りを一緒に過ごしたあのエイリアンは完全な死を迎えたと言うのか?だとしたら責任は自分にあったのではないか?いずれにしても手詰まりだった。行くべき方向性を委ねていたために、どうしてよいかわからないのだった。そして為すべきことを決める方法が見つからないまま、これまで通り惰性的ではあるが、サラリーマン生活を送ってゆく他なかった。



「どうですか?最近は?」心療内科の医師が尋ねる。
「調子はいいです。不安もイライラもないし、記憶がなくなることもないんです。」
「周りの人も…、奥さんとかもそう言ってますか?」
「はい。特に異常はないみたいですね」
「それは良かった。前回来られた時より元気がないように見えますけど、そんなことはないですか?」
「そうですかね。自分ではわかりませんが」
「薬は飲みづらくはないですか?」
「はじめは辛かったですね、とっても」
「今は慣れた?」
「ええ。でも頭の中が圧迫されるような感じはあります」
「頭痛はありますか?」
「頭痛持ちだったのが、それもなくなったのは不思議です」
「そうですか。記憶がなくなったということについて、ご自身ではどうしてだと思いますか?」
ウォークインが何らかの異常をもたらしたのかも知れないと考えてはいたものの、それを語って薬の量をふやされても困る、そう思ったタツオ君は無難な答えを選んだ。
「…わかりません」
「はじめにおっしゃっていた、幽霊は出ませんか?」
「ええ、ピタリと出なくなりました」
「良く眠れますか?」
「それが、夢も全く見なくなったのです」
「眠りが深いんでしょう」
「…でも先生、薬を飲むようになって何だか世界が狭くなった気がするんです」
「狭く?…この部屋も狭く感じますか?」
「そうではないんです。実際のスペースではなくてイメージの世界なんですが、以前は広く遠くまで見通せた気がするのに、今は窓のない狭い部屋に閉じ込められているように、何も見えないという感じがするのです」
「…それで何か困ったことがありますか?」
「いや、具体的には何も。ただ何故そんな風に感じるのかと…」
「思い込みもあるのではないのでしょうかね、はじめてこういったお薬を飲まれたことによる…」
「…そうかも知れませんね」
「とにかく薬は飲み続けてください。決して自己判断で止めないでくださいね」

医師はタツオ君の安定した様子を見て、次回の診察は一カ月後で良いと言った。投薬が適切であると判断し、同様の薬が一カ月分渡された。

nice!(15)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 45 [音楽]

他を虐げる者は、別の他から虐げられている。その別の他も、そのまた更に別の他から…。そうやって虐待や暴力の出所を追及してゆくとすると、その始まりはどこなのだろうか?それは特定の個人なのではない。ある一種類の心の状態がそれを強制するのだ。「恐怖」。諸悪が全てここに帰結する。そして地球人は、恐怖のない状態を永続させようとする。ここに何が生まれるか?「欲望」である。むろん生本来の本能的欲求を言っているのではない。ここで言っているのは、恐怖を出来るだけ遠ざけようとして、富を無限に増やそうとしたり、城の周りに高い防壁を張り巡らせたり、核兵器を作ったりする、最終的に破滅を招く、地球人特有の欲望のことだ。

地球世界には軍備がある。それも半歩間違うだけで、一瞬にして地球そのものを破壊してしまう軍備が…。そういう世界にあって、あなたの家庭だけは幸福、という例外は存在しうるだろうか?あなたの家庭が世界から完全に独立していれば、それもあり得るだろう。だがあなたには国籍があり、あなたは労働と納税を行い、あなたの町で買い物をする。この社会の仕組みに従って生きている以上、平然と軍備を持つという世界の在り方の影響を全く受けないということが、果たして可能なのだろうか?


Oasis - All Around The World 投稿者 Paris_Combat

国境によって分断されているとはいえ、もともと世界は一つなのである。よく「一つになろう」というフレーズが美辞麗句のように語られるが、そもそもの始まりから我々は切り離せない、ただ一つの中にあるのだ。にもかかわらず、かの国とこの国とをわざわざ分けている。他国は戦乱に満ちていようとも、我が国だけは平和でいましょうと言う。そんなことが可能だろうか?

さて、上記が不可能だとしたら、地球人が救済される日はどのようにして訪れるだろうか?
あるいは、地球人は滅亡の日まで、ついに救われないのだろうか?仮に後者だとしたら、あなたは黙って滅亡を待つのだろうか?もはや救われたいと願うことすらないのだろうか…?そしてそのような人生は…「平穏」なのだろうか…?

nice!(20)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 44 [音楽]

「おい…一体どうしちゃったんだよ」そう言って部長がタツオ君の肩をたたく。周りに誰もいないのを見計らってのことだ。
「あ…部長…」
「今日も具合悪そうだなあ」
「あの、部長…」
「何だ?」
「僕…やっぱり病気だったみたいです…」
「病気?なんの病気だ?」
「それが…精神科にまわされちゃったんですよ、それで病気だと…」
「うつ病か?」
「いや、もっと厄介な病気でしたね」
「厄介って…、単なる物忘れじゃないのか?」
「いや、あの時だけじゃなくて、家でも大騒ぎしたらしいんですけど、その時のことを全く覚えてなくて…」
「じゃあ、薬のせいでそんなになってるのか?」
「ええ、副作用がきつくて…それよりいろいろ迷惑かけてすみません。」
「いや…そんなことは気にしなくてもいいんだが…」
いくら普段口うるさい上司でも、さすがに病人を相手に日頃の接し方はできなかった。



「おれもかつて総務の責任者をしていたことがあるんだ」部長が会話を再開した。
「それでいろんな人間を見てきたんだよ。お前みたいになった奴も中にはいたんだがな…、やはり薬を飲み始めてしまうと仕事はダメだよな…。判断力が鈍るし、薬でちゃんと立ち直れたってケースも無かったな。」
「そうですか、でもどうすれば良いのか…」
「できるなら薬をやめることだ。まさか選りによってお前がそんなになっちゃうなんてなあ…」
部長はそれなり、口をつぐんで、パソコンの画面に見入ってしまった。
最も目を掛けて、側に置いていた部下がこのような状態になってしまうのは、実際やりきれないことだった思う。幾分屈折してはいたが、職業人には職業人なりの愛情があったということなのだろう、この時彼は本当に悲しそうに、それでも無理に微笑んだ眼差しをタツオ君に向けていたのだった。

nice!(16)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 43 [音楽]

僕たちの計画はこのようにして、思いがけず終わりを告げてしまった。ところが僕はこうして今、この「暗黒の二年間」を書いている。それは闇の中で幽閉されていた期間に終わりがあった、ということを指すが、それがどのようにして終わったのか、ということについてはこの「暗黒の二年間」の終盤に譲りたい。
ただひとつ断っておきたいのは、暗黒の世界にいた間の出来事については、後にタツオ君から聞いたり、またはタツオ君の記憶にアクセスしたりして知ったことである、ということだ。



僕が後で聞いたところによると、僕が暗闇に落下してゆくちょうどその時、タツオ君は夜中に目を覚ましたそうだ。そして四方に見えない壁が出来上がっていることに気付いたそうだ。それまで当り前のように広大に広がっていた世界が、感覚的にはほんの一メートル先で遮断されており、そこからは何者も入って来られないのだそうだ。無論タツオ君もその外側を見ることすらできなくなっていたという。とてもとても狭い独房に入れられたのと同じ状態で、安全ではあるが無味乾燥な四角い部屋の中に、突如として閉じ込められたのだと…。そしてその時、最期に見たイメージが悲鳴を上げながら奈落の底に落ちてゆく、「荒ぶる神」だったという。それ以降何者も、よく現れていたあの幽霊でさえも、タツオ君の前には現われなくなったということだ。これは何を意味しているのか。

ともかくタツオ君は直ちに以前の覇気を失い、別人のようになってしまった。痛みを感じなくなり、不安もなくなり、その代わりに楽しみも、また今までのような希望も失ったのである。仕事は以前の半分もこなせなくなっていた。睡眠時間が増え、家では眠る以外になく、休日ともあらば一日中眠っていた。それで夕食に起きたとしても、また薬を飲んで朝まで眠るというありさまだった。おぼろげに、こんな状態で良いのかと問いかけることはあっても、それを深く考えることも出来なくなり、まるで理性の残滓によってかろうじて日常を再現しているかのような状態だった。良くも悪くもあの白い錠剤が、それだけの強大な効力を持っていたのだ、ということを指摘しておく。

しかし仮に精神病患者がいたとして、それを「治す」薬というのは、実は存在しない。薬は治すのではなく、ある特定の症状が存在しないかのような状態を作り出すだけなのである。むろんいっときはそれらを必要とする場合があるのだろう。しかしはっきり言っておくが、病んだ世界が精神病を生むのであって、精神病を生まない世界を構築する以外には、それををなくす方法はないのだ。

nice!(20)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 42 [音楽]

せめてもう一度僕が表に出ていたなら、必ずタツオ君の目につくよう、メモを残していたことだろう。「君は病気ではない」そう、せめて一言だけでも…。
ところが運命はそのようにならなかったのだ。



その晩、タツオ君は処方された白い錠剤を服用した。心療内科がよこす薬と言えばそのほとんどが劇薬に相当するが、これもまた例外ではなかった。アルコールや過度の喫煙、強い薬物が、肉体と魂との接続部分に強度のダメージを与えるという事実を、僕はタツオ君に説明しておかなかった。タツオ君はまず非合法のドラッグに関わるようなことはない人だったし、僕自身まさかこんなことになるとは思ってもみなかったからだ。タツオ君もこのような薬が、本来の健全な霊的成長にはプラスにならないことは感じていたものの、服用することによって、日々の暮らしが楽になるかもしれない…、そういった楽観的な希望に安易に身を委ねてしまったことも事実なのだ…。

そして数時間後、タツオ君が眠りについたころには、僕たちの計画の全ては終わっていたのだ。僕の住んでいるタツオ君の意識下の小部屋は、見る見るうちに地響きをたてて崩壊した。中央にあった外界への窓であったコンピュータも、パチンと音をたてて消えた。僕はウォークインしたての時のように、ただタツオ君の神経系統に必死しがみつく状態となった。そして折角今日まで徐々に固定化してきたその接続までもが、今やひとつひとつ解除されてゆくのであった。
(タツオ君…やはり…その薬は…まずかったな…)
そう思いつつ僕は最後の接続を絶たれ、奈落の底へと吸い込まれていった。どこまでも、どこまでも落ちて行った。そこは光のまったく射さない、暗黒の世界だった。僕のほか何も存在しないのだ。どっちへ行っても真の闇。従ってどっちへ行ってよいのかもわからない。僕はもう外界を見ることはもちろん、タツオ君の心さえ聞こえないところまで落ちて来てしまったことを知った。

みなさんは、スーパーマリオブラザーズをプレイしたことがあるだろうか?プレイヤーであるマリオが、ブロックとブロックの間の黒い隙間に落ちて消えるとき、一体どこに落ちて行ったのか、などと考えたりはしないだろう?しかし、その誰も決して想像しないような、時空間の隙間のようなところが、実際にあるのだ。それは本当に、闇以外は何もない世界だ。そして僕が落ち込んだ闇は、さらにひどいことに、一度落ちたら最後、リプレイが効かないのだった…。

nice!(22)  コメント(10) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 41 [音楽]

「総合して考えますと、ご主人はお仕事の疲れなどから強い抑うつ状態にあることは間違いありません。しかしその他、こうしてお話している限りは普通ですし、むしろ非常に常識的ですよね。ところが大きく記憶をなくしたという事実が、他人によって二度も指摘されている。そして奥さんのお話によれば、別人格が現われている。そしてその時の記憶がない…これらを総合して当てはまる病気があるんです…。『解離性同一性障害』といいます。二つ以上の人格が現われ、お互いにお互いを知らないという、少し難しい病気です。ただ私は奥さんのおっしゃる内容以外に、直接別人格が出ているところを確認できていませんので、ひとまず比較的汎用性のあるお薬を出しておきます。ストレスなどで疲れている精神が楽になり、今までよりも楽しい気分になるお薬です。それを服用してもらいながら、一週間ごとに様子を見て、より合った治療法を考えてゆきましょう。」
「はい」マコさんはタツオ君が医師の言う通りの病気であることを疑っていなかった。まさに医師に説明した通りのことが、実際目の前で起こったことに違いなかったからだ。そしてそれに対し医師が診断した病名なら、悔しいが、そうに違いない…。



医師は薬の服用方法などと、次回診察日の話などをしていたが、僕は気が気ではなかった。おそらく医師が処方する薬は、僕らのウォークインの待機状態に対して激烈なダメージを与えるであろうからだ。
タツオ君も医師の「別人格」という言葉に、我々の文字通り命を掛けた試みが失敗しつつあるのではないかという考えを深めていった。何故なら、別人格が現われるのはあと一カ月は先なのだ。タツオ君にはそう前もってよく説明してある。そしてその時には僕とタツオ君との間に、必ず明快な通信手段が確保されている筈だということも。従ってそれまでいかなる声が聞こえようとも、誤って僕の声だと認識してはならない、そこまで僕は言っていたのだ。ところが我々は一切交信しあえていない。タツオ君は、ウオークインの影響か否かは判然とせぬものの、自身に何らかの異常が生じているのだと感じていた。忙しさのため、またタツオ君を安心させるため、ウォークインのさまざまな失敗例について説明しておかなかったのは僕の落ち度だ。その結果タツオ君は精神病と診断され、それを信じている。タツオ君、聞こえるものなら聞いてくれ、もし本当にその通りなら、今までやって来たことは一体何だったのか?
しかしまた、ロザリオに責任を転嫁するつもりはないが、このデリケートな儀式を行うには、あまりに短期間に事を運び過ぎたのだ。そう思えてならなかった。そして当のロザリオには連絡が取れない。今や僕は現在自由にできる通信器官をもたないのだから。

僕は全ての状況を把握していながらどうすることも出来ない自分に苛立つばかりだった。


nice!(20)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 40 [音楽]

「ご主人はお仕事はお忙しいのですか?先程徹夜とかおっしゃってましたが…」
「そうですね、あのときはとても忙しくて…副業のイラスト原稿を上げたばかりでした」
「お勤め以外にそんなこともなさってるんですか?」
「ええ」
「イラストって、本か何かに?」
「ええ。本の表紙ですね、挿絵なども」
「それは随分と多才なのですね」
「いや、ただの成り行きですが…」
「いや、びっくりしました。それで…それのせいで徹夜までしていたわけですね…。疲れませんでしたか?」
「ええ、疲れていると言えばいつも疲れてましたが、ちょうど家内が言ったその記憶をなくした日というのが、その徹夜の直後だったんです」
「なるほど…幻覚や幻聴などはありませんか?」
「ああ、それでしたら何と言うか…昔から色んなものを見ます。変に聞こえるでしょうけど…」
「幽霊みたいな?」
「はい。それはしょっちゅうですね」
「どんな幽霊ですか?」
「女の幽霊が多いです、最近になるまで顔を見ることはなかったんですが」
「それはどんな状態で見ますか?」
「寝入りばなですね。眠ると目が覚める、部屋の中が良く見えているのに、でも身体が動かない、それで自分の上に何かがのしかかってくるんです。苦しいんだけど動けない」
「顔が見えないんですか?」
「ええ、最近までは。でもあまり頻繁なので、顔を見てやろうと思って、よく見たら女のひとでしたね」
「それは知っている人ですか?」
「知らない人でした」
「いつも同じ人なんですか?」
「顔や背格好は変わるのですが、僕には同じ人だとわかるのです」
「どうして同じ人だと?」
「なんででしょうね、もしかすると自分で作り出している像だからなのかもしれないですね」
「夢ではないですか?」
「精密な夢かもしれません、何せ寝室が完璧に再現されていますから。僕は目が覚めているとしか思えないのですが、幽霊がいるということは、やはり夢で、僕が寝室と寝ている自分を完璧に再構築しているだけなのかもしれません。」
「金縛りは、身体が眠っていて、頭が起きている状態で起こると言われています。身体が動くようになると、幽霊は消えますか?」
「消えます」
「おそらく金縛りだと思いますね。そういう状態で幽霊を見たと言う人は沢山いるのです」
「そうですか。なら安心しました」
タツオ君は自分のコンタクティーとしての能力にだけは触れなかった。とうてい常人が信じられる範疇を超えているからだ。しかし僕はこうして現実にやって来たのだし、決してタツオ君の幻覚などではなかったのだが…。しかし今のこの状態はどうだ?幽霊とさして変わらないじゃないか?
そう思ったとたん、なんだか悲しくなってきた。



その後、医師はかなり長い時間周到な調子で質問を続けた。飲酒、喫煙、最近強い薬を使っていないか、両親に虐待されたことはないか、だれかと死別していないか、最近家などの大きな買い物をしなかったか?別の人間になりたいと思ったことはないか?などなどだ。
僕らの答えはイエスもあり、ノーもあった。

nice!(24)  コメント(6) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 39 [音楽]

「さあどうぞ、奥さんも。お掛けになって。今日はリラックスして下さい。いくつか質問させて頂きます。思いつくままにお答えになっていただければよいので、よろしいでしょうか?」
「はい」僕たちは答えた。心療内科の医師は中性的で優しい顔立ちをした、若い男の先生だった。どことなくタツオ君を思わせるところがないでもなかった。
「分からないところは奥さんにも質問させて頂きますね」
「はい、宜しくお願いします」マコさんも恭しく答えた。
医師はカルテにボールペンを突き立て、次のような質問をしてきた。



「では、まず症状の確認から参ります。少し変だなと思われたのはいつが最初ですか?」
「僕は先週こちらへお世話になる前の日なんですけど、家内はもっと前に気付いています」
「なるほど。奥さんがそれに気がついたのはいつが最初でしたか?」
「そうですね…それよりさらに一週間ぐらい前だったでしょうか」マコさんが答えた。
「すると約二週間前ですね」
「そうなりますね、それも朝でした。」
「ふむ。その時、ご主人のどんなところが、その…ちょっと変だなと感じましたか?」
「ええ、あの時は…寝室の方から大声で主人が何か叫んでいるので行ってみたら…、鼻血を出してたんです。箪笥に顔をぶつけたんでしょうけれども、それも本人が覚えていなくて」
「ええ」医師は相槌を打つ。
「…それで、自分の名前を呼んでいるんですよ、まるで別人になったみたいにして。しゃべり方も変でした、良く口が回ってないような…でも確かにあのとき、タツオ君、タツオ君って叫んでいたんです」
「ご主人のお名前ですよね」
「ええ。聞き間違いではないと思うんです。というのもその後で私に面と向かって言ったんですから」
「何と?」
「マコさん、タツオ君が、タツオ君がって言って…慌てているんです」
「はい」
「それで、普段私のことは呼び捨てなのに「さん」付けで呼ぶのもおかしいし、私言ったんですよ、『タツオさんはあなたでしょう』って」
「それでその後ご主人は何か言いましたか?」
「いいえ…うわごとみたいに何か言っているようでしたけど…鼻血もかなり酷かったので横にならせているうちに、また眠っちゃったんですね。それでその日の夕方まで眠って、起きたと思ったら、朝のことを全然覚えてなくて…」
「その時は普通の、いつものご主人でしたか?」
「そうですね、記憶をなくしている他は、いつもの主人でした」
医師は一呼吸おいてから、僕らの方に向き直った。
「ご主人に伺います。ご主人は今奥さんが言われたことで何か覚えていることがありますか?」
「いえ、それが…ありません」
「いつから記憶にありますか?」
「夕方目が覚めたときです。徹夜したとはいえ、随分眠っちゃったな、とその時思いました。こいつが来て変なことを言うもんだから、鼻を触ってみると、本当に鼻血のあとがあって、額のあたりがすごく痛かったんで、確かにどこかにぶつけたんでしょうけど、何も覚えていないんで、びっくりしたというか…」
「ええ。それで…、ご主人が、ご自身で変だなと気付いたのは?」
「自分では気付けなかったと思います。その…会社でみんなに記憶をなくしていると言われて、その時はそんな筈はないと言い張ったんですが、家内の言ったようなことを思い出して…まあ、これは少し変なのかな…と」
「なるほど」
医師は素早くカルテに何かを書いていたが、それは僕たちの読める代物ではなかった。
そして医師の質問はなおも続いた…。

nice!(18)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 38 [音楽]

一週間の後、僕たちはまた、マコさんとともに同じ総合病院の脳神経科にいた。



「ご主人の、精密検査の結果なのですが」
やせて背が高く、鼻も高く、眼鏡をかけたその医師は話し始めた。
「はい」マコさんは僕たちのとなりに座って姿勢を正した。
「結果から申しまして、身体的異常、脳、脊椎、その他全身にわたって、ということですが、異常はみられませんでした…」
「そうですか…」
「はじめは脳腫瘍か、アルツハイマー型認知症を疑いました。ところが器官に何ら異常がない。今後長期にわたって検査してゆく中で、MRIなどで脳の委縮などの変化が見られるなら、アルツハイマー型認知症と診断出来るのですが、現にご主人を見ていると、本当に特定の時と、特定の事柄以外の記憶がしっかりしているし、話し方も極めて明瞭ですよね。こうしてお話している限り、全く健全そのものなのですよ。しかし、明らかに部分的に記憶をなくしているという症状と、別人のように自分のことを第三者的に呼んで、さらにその時の記憶が全くない…という症状ですね、これは明らかにご主人の中で何かが異常をきたしている、といわなければなりません」
「すると…精神的な…?」マコさんは眉をひそめて尋ねた。
「そうなります。しかもご主人の場合、どうも記憶をなくした時の身体の動きや、話し方がぎこちなかった、という点から考え合わせても、あまり程度の軽いとは言えない精神病を発病している可能性があるのです」
「重度…なんですか?そんな自覚ないのにな」今度はタツオ君が言った。
「ええ、そうなんです。軽度の場合ですと、ああ、少し変かな?という自覚があるものなのですが、ご主人の場合にはその変だった時の記憶が全くない。そこが心配なわけです。まあ、アルツハイマー型認知症の可能性も捨てきれませんので、当方の検査は、半年ごとに行いながら経過をみるということにして、より現実的な手段として、うちの心療内科を受診してみてもらえませんか?」
「心療内科…、精神科のことですか」
「ええ。実はもう心療内科の方には話を通してあるんですよ、すぐに診てもらえるようにね。今日の午後に診てくれますから、行かれてはどうかと思っているのです。私としても、現に症状が出ている方をこのままおかえしするには忍びないので…」
「はあ…」
「向こうでは、また違った専門的な角度からの診察と、実際的な治療を行ってくれる筈なんですよ。現段階では、こちらでは治療法を絞りかねますので…。いかがですか?」
「…はい。お取り計らいありがとうございます。それでは折角ですし、今日診てもらうことに致します」タツオ君は言った。

結局、その脳神経科の医師の取り計らいにより、午後になってしまったものの、その日のうちに心療内科を受診することができたのだったが、その間僕がマコさんやタツオ君以上に鬱々たる気分と、焦燥感にとらわれていたことは言うまでもない。

nice!(21)  コメント(6) 
共通テーマ:音楽

暗黒の二年間 37 [音楽]

初診では、問診票にある幾つもの項目に記入しなければならなかった。
「なんだか、いよいよ病人になった気分だな」タツオ君が少し苦笑いしながら言った。
「本当に気分だけならいいんだけど…」マコさんは相変わらず浮かない表情だ。

そして、検査は口頭による症状の確認から、視覚検査、聴力検査、血圧測定、頭部と胸部のCT、頭部MRIとMRA、血液検査、尿検査、心電図、眼底検査にまで及んだ。
(こんな筈ではなかった、一体僕たちは何をやっているんだ…?)
ドーナツのような入口の、白いトンネルの中に身を横たえ、長時間要らぬ電磁気を浴びながら、僕の気分は次第に落ち込んで行くのだった。



「しかしやたら大げさな検査だったなあ、こんなに元気だっていうのにさ」
帰りの車の中で、タツオ君は押し黙っているマコさんとの間に何か会話を作ろうとして、話しかけた。
「神経って難しいのね」マコさんは助手席から外を眺めながら、ポツリとつぶやくようにそう言った。
「ああ、そうなんだね…」

その日は帰りがけに、以前寄ったことのある通りの端の蕎麦屋に寄って、遅い昼食にした。いつもは蕎麦屋というとマコさんが必ず嫌だという。単純に子供たちと行くファミレスの方が好みなだけなのだが、この日ばかりはタツオ君に合わせてくれたのだった。

nice!(22)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。